Patchwork Dream

随時、記事の加筆・修正または再掲載します。

君たちはどう生きるか

すっかり人生「上がり」みたいな気分になる。外国製の、数万円もする掃除機をかける。ベートーベンのピアノソナタを聴く。塩分と糖質の摂取を控え、毎日トレーニングする。

1人で生きていく。静かに。この先、何が変わるだろう。

dancex2.cocolog-nifty.com

 

人生

Vlog・人生系YouTuber10選①でも述べたが、今は簡単に他人の生活、人生を垣間見ることができるようになった。特にYouTubeなんてネット回線さえあれば誰でも無料で閲覧できるし、昔会社の上司がYouTubeのHow To動画で何でも参考にしてやってみるタイプの人で「金がかからない」と言っていた。売れていない芸人の生活なんてテレビでもそう特集されないが、YouTubeでは一般人が生活を垂れ流すVlogが広まって以降、一番気になるなんでもないただの人の日常を閲覧できるようになったのは興味深い。

www.youtube.com

―――哲学者は幸せそうに見えない

よく病んだときに哲学をかじったり、自己啓発に走るのはありがちなパターンではあるが、哲学を知ったところで解決策が得られるわけではない。結局こういうものだと厭世的になるだけで、ポジティブに打開策が見えてくるわけでも意欲が沸くわけでもない。欲しいのはその先の答えなのである。

―――何が起こるかわからないゆえに偶然の力は大きい、そしてその偶然が人生を左右する

これが私の生きる道

open.spotify.com

最近、すき家ばかり行っているツイッタラー(死語)の方が退職したという旨の記事が上がっていた。メディア露出が増えて会社で身バレすると最終的に退職になるのか。METEORA st.というアーティスト事務所のようなところにも所属しているようで、すき屋でしか使えないポイントが100万円分溜まったとの報告もある。

すき家に通い続けるという活動が注目を浴びて数々のインフルエンサーが集って記念ソングが作られるという事態に発展した。

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―――努力は夢中に勝らない

―――人波に流されて傷つき傷つけ丸くなっていく石

―――時間をかけてのし上がることを諦めない

―――どこでどうバズるのかはわからない

☟下記はバキバキ童貞ことぐんぴぃのYouTubeチャンネルだが、ネット上で一躍話題となった時の人を紹介している。

www.youtube.com

―――それまでの経歴

かまいたち山内

元々は教員を志していたようで、当初は地元に就職することも芸人になることも考えていなかったようだ。下記記事を読むと、いかに効率的に生きていくかと言うこだわりが伺える。

教育実習を行ったところ、現実のギャップを突き付けられたようだ。心に残っていた芸人になる志から大学卒業後はNSCに入学することを考えたようだ。2つの選択肢を想定し、大学生活を送ったようだ。

「僕のテーマは『楽をして稼ぐ』なんです。教員はこのテーマから大いに外れていた。もちろん、最初から楽をできるとは思いません。『哲也―雀聖と呼ばれた男』という麻雀漫画があるんですが、房州という人物が、サイコロの狙った出目を本番で出せるようにサイ振りを猛練習するんです。そこで出てくるのが、『怠惰を求めて勤勉に行き着く』という言葉。僕もまさにこれで。後から楽ができるなら、いくらでも頑張れます。でも、教員の世界はそうじゃなかった。『日本の未来のために』『子どものために』と考えられる先生はすごいですよ」

(省略)

「怠けていい人は、いくらでも怠けていいと思います。でも、怠けられるレベルにない人が怠けたら何にもならない。後輩芸人に『変な仕事しか来ない』と相談されることがありますが、『お前がそのレベルだからやで。その自分を受け入れろ』と思いますね。僕らも昔、15分のロケVTRを作るのに20時間も拘束されたりして、『なんでギャラこれだけやねん』とぼやいたりしました。でも結局、当時の自分に見合った仕事が来ているだけ。売れていて暇じゃない人には、そんな仕事こないですから。僕は今ようやく、怠けていいレベルに来たと思っています(笑)」

toyokeizai.net

呂布カルマ

呂布カルマが元々漫画家を志していたのはヘッズの間では有名な話で、自身のアルバムのジャケもたまに呂布カルマ本人が描いている時もある。33歳頃までサラリーマンとの掛け持ちで仕事をしており、塾の教室長として進路相談や面接の対応を行っていたようだ。ルーチン作業が苦手な呂布にとって性に合った仕事のようだった。

昼間はオフィスワーク、夜はライブと言う生活で、限られた時間の中でリリックを書いたりと、多忙ながらも充実した生活だったように伺える。ライブのギャラがアルバイトの収入を上回り、ラップ一本で生きることを決意したようだ。

同時期、ラップも並行して始めており、ラップなら自分の書いたものをすぐに表現できて、ステージに立てばダイレクトに反応を得られることを知ってしまった僕は、ひとりで机に向かって淡々と漫画を描く作業に退屈を感じてしまった。

しかも、描いた漫画がすぐに雑誌に載り、単行本になるわけではない。

持ち込みをして、出版社に認めてもらい、連載を獲得する必要がある。

連載を獲得するだけでも大変なのに、連載を獲得したらそこで終わりではなく、日々迫りくる〆切に追われながら淡々と漫画を描き続けなければならない。

その地道な作業を想像して「これは無理だな」と見切りをつけた。

(省略)

ラッパーとして生きていくことを決めたものの、すぐにラップで食えるワケもなく、アルバイトもしたし、30前には一般企業に就職した。

最初の会社はクビになった。

決められたルーティンをひたすらこなす仕事だったのだが絶望的に向いておらずミスを連発した。完全に自分に向いていなかった。

でも、「俺にはラップがあるしな」と気にもしなかった。

fujinkoron.jp

■かっぴー

氏を初めて知ったのは大学時代に教授がおすすめしていた『左ききのエレン』からだ。

2009年に広告代理店に入社し、2014年Web制作会社に転職、勤務しながら、『cakes』(現・note)にギャグ漫画『フェイスブックポリス』を投稿したのが、2015年9月のこと。Twitterを中心に話題となり、会社を辞め専業漫画家へと転身したのは、30歳のとき。而立を迎えるタイミングだった。

「その時期に『左ききのエレン』の読み切りを描いたら、『cakes』から連載の依頼をいただきました。当時は無名媒体で、しかも初月の原稿料、これは一生忘れないと思いますが、4000円だったんです」

ーー1話4000円ですか?

「いや、4話分で4000円です。だから1話1000円」

ーーその数字を見て、どう思いましたか?

「うれしかったです。自分が描いたマンガで、お金がもらえるなんて……! と思って。『フェイスブックポリス』がバズったときは、投げ銭で100円もらったんですよ。数百万人の人に見てもらって、Twitterのトレンドにも上がって、得たお金が100円。金額だけ聞くと喜ぶようなことじゃないかもしれません。それでも“マンガがお金になった!”と、興奮した記憶があります」

news.yahoo.co.jp

どうやらかっぴー氏は面白法人カヤックに在職していたようで(その前が広告会社勤務)『フェイスブックポリス』もそこでの日報として送るものをそのままnoteに投稿したようだ。

それが、だいぶ経ってからなんですよ。日報といっても、さすがに毎日は描いていなかったんですけど、社員から「面白い」「早く描いて」といってもらえて。よく小学生がノートに漫画描いて、クラスで回したりするじゃないですか。あんな感じで、カヤックっていうクラスで、漫画を回して読んでもらう気分でした。そうしているうちに、入社して一年くらい経って、9月の連休の時、仕事だけやるんじゃなくて、なにかプライベートで自分でもつくろうと思ったんです。天野さんなんかも、放っておいても、自分でどんどんものをつくるでしょう。

そういうの見てすごいなと思って、連休の間に何かつくるぞと思っていたら、気づいたら何もしないまま最終日になっていたんです。それで「何かやんなきゃ」と思って、過去に描いた漫画をインターネットに公開してみようと思って。

20th.kayac.com

■レンタルぶさいく

――レンタルぶさいくさんは元芸人だそうですね。

レンタルぶさいく(以下、同) はい。早稲田大学のお笑いサークル(寄席演芸研究会)でお笑いを始めて、大学卒業後にそのままマセキ芸能に所属し、「フェー」というコンビで篠原塁として活動していました。
でも、このサービスを始めて約1ヶ月後にコンビは解散して事務所を退所、芸人も引退しました。

――コロナ禍に「レンタルぶさいく」業一本で!? 思いきりましたね。そもそもなぜ“ぶさいく”を貸し出そうと?

ぶさいくって世の中に絶対必要なんですよ。なぜイケメンがイケメンたり得てるのかといえば、比較対象であるぶさいくがいるおかげですから。
だから、他にもぶさいくが役立つ場面があるんじゃないかと考え、「合コンの負け役」「イケメンだと緊張してしまう女性のデートの練習相手」「ぶさいくでも着こなせる服のファッションモデル」などを活用例としてサービスを開始しました。

(省略)

――実際にどのような依頼が?

わかりやすいものだと、遠距離恋愛中の彼氏がいる20代女性から、コロナ禍でなかなか彼氏と会えないから、デートの練習相手をしてほしいという依頼がありました。
レンタル彼氏はカッコイイ人が多くて彼氏的には気分がよくない。その点、僕ならどう考えても浮気に発展しようがありません。まさにぶさいくだからこそきた依頼ですね。

――狙い通りですね(笑)。

そのほか変わったところでは、整形のダウンタイム中の30代女性から「まだ顔が腫れてるから誰にも会いたくないけど、誰かと直接会って話して寂しさを埋めたい」といった内容のものもありました。
思い返すと、このように女性からの「ぶさいくだから外面を意識する必要がない」といった内容の依頼が圧倒的に多かったですね。

shueisha.online

自分の容姿を逆に生かして活動している元芸人の方で、たまにネット上で見かける印象だったが今はセブ島にいるらしい。「レンタルなんもしない人」や「プロ奢ラレヤー」といったサービスを個人で始める人がちょくちょく出てきた後だったが、それでも肩書のインパクトや、悲観的にならず逆に利用しようとする力が凄い。

友人と海外移住の話をしてるうちに、フィリピンなら平均月収2万円だけど、現地日本法人で働けば12万円はもらえると知り、「現地の人より稼ぎがいいならモテるかも!?」と思い本格的に調べて、セブ島を見つけました。

――それはまた下心全開ですね……(苦笑)。

「プールつきの家に住んで豪遊できる!」って(笑)。
そのために、バイトしながらセブ島で仕事するために英語の勉強や、現地の日本企業の面接をいろいろ受けて採用されたので、2022年8月に移住しました。

――モテるためのエネルギーがスゴイ。現地での暮らしはどうですか?

新鮮と思えたのは最初だけで、衛生面とかインフラ面とか本当に不便で、正直、この1年が人生で一番過酷でした。一応、サラリーマンをやってますけど、今フィリピンの物価が日本とあまり変わらず豪遊もできない。すなわちモテもしなかったので、来年2月に日本へ戻る予定です。

shueisha.online

トリガー

―――ちょっとした動機で楽しい未来を築く

―――人生谷あり谷あり

元々ひきこもりだった方でも、その後の人生何かのきっかけで大きく人生が変わるかもしれない。昔ゼミの研究で研究成果が芳しくなくて大学に行かずに家でくすぶってた頃、ちょっとした不幸が大きいダメージに感じられてますます何もする気が起きずに無気力になってしまっていた。ただ、そこでふと大学に向かってミーティングをして相談したところ、案外打開策が得られて、そこからは順調に成果物を作って卒業することが出来た。こういう時は、独りで何とかしようとするのではなく、何かに頼ったり、せめて塞ぎ込んで腐らないように何かしら刺激を受けた方が良い。

「最後は『きっかけ』でした」

 こう話すのは、中学2年から23年間、ほぼ自宅を出ない「完全ひきこもり」だった京都市の板垣修平さん(48)だ。ずっと外に出たい、学校へ行きたい、働きたいという想いを抱えていたという。高校入学、大学入学、成人式、25歳、30歳──。区切りがくる度に行動しようとしては、周囲の目が気になったり、自信がなかったりして動き出せなかった。その度に「死にたい。こんなはずじゃなかった」と葛藤したという。

「ずっとタイミングを待っていた」という板垣さんが、自宅を出たのは37歳の時だ。母が心筋梗塞で倒れ、病院に駆けつけた。

「ショックで、このままではいけない、いまが『その時』だと。これを外に出るきっかけにしなければいけないという強い気持ちが湧いた」(板垣さん)

 すぐにラーメン屋のアルバイトを始め、その後、43歳の時、飲食業を展開する企業で正社員になった。結婚を考えるパートナーとも出会った。21年には、ひきこもりの支援をしようと当事者団体「京都コレカラ」も立ち上げた。

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―――なんだかんだで今日も過ぎていく

ぼくは中学でドロップアウトしてから高校出るまでリアルにゴミみたいな感じだったのだが、運良く大学に受かって、たまたま未経験で雇ってくれるアシスタントのバイトに採用されて、そこでデザインを勉強することが出来て、運良くデザイナーとして就職も出来た。   社会人になってからは、「(その会社でデザイン系の最高役職がアートディレクターだったので)アートディレクターになること」と「家を買うこと」を目指して、働いて貯金して、親に余計な心配をかけることもなくここまで生きて来れたのだけれども、時が過ぎて、アートディレクターになって、マンションを買って、正直人生のモチベーションが無くなってしまった。   そこから私の早過ぎる心の縁側生活がスタートし、仕事とネットしかしないスーパー余生モードで淡々と暮らしていたのだが、しかし人生すっかり飽てしまったところで死ねない以上は生きていくしかない訳で、やっぱ目的無く生きていくのは結構ツラいしダルいのだよなー。   それで始めたのがDTMなのねん。目的とか目標ではないんだけど、90歳のおばあちゃんの「(人生の後悔を問われて)40の時にバイオリンを始めなかったこと。40で始めてたら今頃その道50年のベテランになれていたのにね」みたいな話を見かけて、未来の自分が振り返った時にやっとけばよかったと思うことってなんだろうなー、と。   で、子供の頃からの憧れが、ありがちなんだけど、絵と音楽な訳です。ただ、絵を描くっていうのは音楽でいうと楽器を演奏することに近くて、向き不向きでいうと単純にあんまり向いてないんだよナー。腕痛くてずっと描いてられないし。   逆に音楽の中でもDTMはデザインにすごくよく似ていて、紙に真っ直ぐな線を引けなくても、イラストレーターでは引ける。そういうのと同じで、知識を身に付けることが表現を代行してくれる部分が結構あって、やり方さえ覚えればある程度のことは出来るようになるから。    別に音楽的な才能とかないし、現状では自己満足以外の何物でもないのだけれど、5年続ければきっとそれなりに上手に出来るようになるだろうし、10年やれば人に聞かせて恥ずかしくないものも出来るんじゃないかなー、と。人に評価されたいということではなくて、どうせだったら自分でやりたいと思うことを出来るだけ高いレベルでやりたいのねん。   5年10年とか、気が長そうに見えて何もしなくてもあっという間に過ぎるのだ。事実、ぼくが打ち込み始めてもう1年半経ってるし。まぁ途中で飽きちゃうかもしれないけど。    なんか勉強して上達するのを体感すると、デザインとか惰性でやってて無意識に煮詰まってた部分について考え方が変わることも多い。左手でボールを投げてみると右手で自然に投げられる有り難みを再確認できる理論てヤツだね。なににつけ、上達っていうのはするつもりがなければしないもんなのだよなー。   絵も、もう少し頑張ってみたいとは常々思ってる。今のところ二兎を追う時間がないからあまり描いてないけど、まぁ20年後辺りを目標にってことで。    大人になったら楽しくないことの方が圧倒的に多くて、他人がぼくの人生を勝手に楽しくしてくれたりはしない。だからこそ、自分の人生を有意義に感じられる方法は、自分で見付けていくしかないっていう。めんどくさいけど、死ぬまでは生きていかねばならん。   そんな厳かな気持ちで、今週も正座でフレッシュプリキュア!を見る訳です。キュン

出典: うーさーのその日暮らし

対人関係

別の世代の友達を作ろう。

karapaia.com

当方、よく暇な時間にネットで知り合った人会ってお茶やら飲みやらして軽く雑談する機会がある(オンライン含め)。その際に聞いた話を参考にすることが多い。

結構多いのか、上京してきていろんな意味で右も左も分からない中で、ネットで人脈を作り、ノマドのようにフリーに生きる人とよく会う。そういった1人で出かけられる人、こだわらない人のパワーを実感する。

  • ケース①:北海道でから上京された方

    聞いた話では、北海道では高校卒業後に大学があるということを知らず、そのまま推薦で就職することが多いというように聞いた。

    その方の話を聞くと、そこから高卒で地域の大企業に就職、その後地域の夜職系の裏方仕事を続け、上京してベンチャー企業へ行ったようだった。

    ただ、その方は2年程で精神にきつくなって退職し、後にバーの店長候補で接客の仕事へ転身するようで、退職金でしばらく自由の身であった。

    理由としては、最初の大企業はもっと良い稼ぎ方があるだろうと辞めていった周囲に合わせて退職し、上京後の企業は無理やり相手の時間を奪って余計なお世話を焼くのが嫌気が差して辞めたようだ。そして、今までの職歴を踏まえた上で接客の仕事が自分にとって向いている、人から奪うのではなく与える側になりたいと考えた末の考えのようだ。

    もちろん、給料は格段に下がるが、それでもやりがいを重視した結果、そのように考えたようだった。ただ、転職後の仕事も4〜5年務めた後で、また別の仕事を考えるビジョンがあるようだった。これからの人生は自分ではなく人のため、将来的には子供のために生きたいとのこと。

    人と合わず空白の時間が増えると内省する時間が増えるものだ。その方は転職前の休職時に哲学の本や人生について考え、結局人類もあらゆる生き物も子孫繁栄のために生きているという考えに落ち着いたようだ。

    タイトルと逸れるが、高卒でも十分働いて過ごしてる方は他にも知っている。工場勤務から警備会社、資格を取得してガス会社に行った人もいれば、ずっとIT系で働いてる人もいる。

    傍から見れば案外身軽そうに、その日暮らしをしてるため、結構なんとかなるのかとも思えるが、実際どうなのかはわからない。

    ただ、感じ取れるのは、自分の好奇心や興味をそのままに行動することが次のステップに繋がっているということだった。その方達は自分の力量やその先を不安に思ったりせず、興味本位でいろんな仕事を始める方が多く、何が良い仕事かを模索して、かつ就職出来ている人ばかりだ。

    今までいろんな働き方、生き方をする人を見てきたが、自分をさらけ出し、自身の赴くままに動ける社交的な人はどこでもやっていけるのだろう。

  • ケース②:NPOを立ち上げた人の話

    駿台法律経済&ビジネス専門学校に通い、法律などを知りたいと行政書士の資格を取得、現在ではNPO法人を立ち上げ、生活保護受給者の取得支援を代議人を用いて執り行う活動をしているようだ。ベーシックインカムによって働かなくても好きなことをして生活出来る仕組みを目指しているという。これについては、よく成田教授もひろゆきも同等の発言をしているのをメディアで見かけることがある。皆が就活をする中、就活という行為が嫌で今に至るようだ。

    人に理不尽なことを言われた時に常に言い返して人生を送ってきたという。一人暮らしで不動産屋と揉めた際に、何が正しくて何がハッタリかハッキリさせるために宅建を取得。とこのような流れらしい。

    このように、資格取得、勉強を通して自分が正しいということに自負心があればそれに付随して自信がつくのだろう。

    皆が就活をする中で、その風潮がどうしても受け入れられず、生活保護受給者に。そこからNPO法人を立ち上げ、有識者生活保護者で組織を構成しているという。

    仕事は給料をもらわなくてもやりたいと思うものでなければ、やりがいを感じないとのことだった。

―――古くからの付き合い

やっぱり友達は学生時代、小中学生の頃からずっと仲の良い地元の友達が理想だなと思う。
皆が口々に「大学時代の友達は繋がりが薄い」と言う。実際、一緒に単位を取る、飯を食うためのビジネスライクな関係になってしまっているのは否めない。その時決まって「高校生活が1番楽しいし、満喫した方が良い」と言う人が多い。限られた中で関係性を築いてあれやこれやと物事が展開していく日常と、バイトやある程度の入れ知恵、大人と子供の曖昧さの狭間に位置する学生という安堵感があってのことだと思われる。
そもそも、大学になるとある程度考え方が打算的になってきて、よりシビアになってくる。そんなだったら、うんことかくだらないことで笑い合ってた純粋な小中ぐらいの地元の友達の方が心から安堵できるし話し合えるのは間違いない。
時系列的には大学や高校の方が新しい故にそれ以降も引き合いに出る友人関係はその時期に出会った人に限られてくるのもわかる。ただ小中時代の友達というのは卒業以後も同じように歳を重ね、大人の階段を登る度にそれほど深まらない周囲との温度差に疑問を感じて、結局昔からの友達って良いなという考えに陥るのだ。
会った時に、なんの話題をしようかなどと悶々としながらも時があの頃に戻ったように同じように話せる仲というのは貴重だ。

―――多くの人と交流して社会と関わり、情報交換する

自身の数少ない友人の言葉に「合う人がいない。だからこそ自分に合う人に出会うために多くの人と交流するのだ」という発言がある。確かにその通りだ。古くからの付き合いの友人ならまだしも、大人になって制約が増えた段階から作る友人関係と言うのは親友なるほどの関係を築くのは難しい。ただ、どんな人とも打ち解けられる対人スキルは必要であり、その自負心が自身の自信となって原動力となり、他社から見た時のカリスマ性やアイデンティティとなる。昔、会社の先輩にも「土日のどちらかは人と会って話す」という目標を掲げては会話をする習慣を立てていた。

友達の数が少ない人は、その数人に友達の全てを求めてしまいがちですそうなんだよね。
あんまり少ないと、その友達に負担が行くんだよね。
遊びも相談も全部その人・・・みたいな。
今度はそれで遠慮して、仲のいい人も誘いすぎないようにしてしまったり。
もしも何かのきっかけや、引っ越しで、その希少な仲良しと会う機会が経ると、
とたんに自分のQOLが下がってしまう。
多ければ多いほどいいとは思わないし、
フォロワー何千人とか、Facebookフレンド何百人とか羨ましいとは思わないけど、
単独株全力買いみたいなことはやめて、ある程度の数の友人作っておくことは、
必要なリスクヘッジだと思った。

―――また会いたい、誘いたいと思う人は”面白い”というより"一緒にいて気楽な人"

学校の授業でもそうだが、単に面白くてユーモアのある授業の進め方をする講師より、訊ねやすい人(気難しくなさそう)だったり、それでいて頼りになる(意見を持っていて自我が確立している)人が一番カリスマ性が高いように思える。その人がいることで場に笑いが生まれるというのはあくまで笑いやユーモアのスキルの話であって、結局仕事が出来てもパワハラ気質な人は周囲から芳しく思われないのと同様、一緒にいて気難しかったり違和感のある人は気安く話がしづらくなってしまう。

―――どんな人も人生を生きる役者

よく役者そのものではなく、演じた役が好きな人やその役がまんまその人のイメージになった役者は少なくないだろう。悪役を演じた方はその人自身が嫌われたり反感を食らったりすることもあったようだ。人は皆、会社に行けば会社員、結婚してれば夫婦、子供がいれば親などのように複数の自分を無意識に使い分けているものだ。

人物

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ジョン万次郎

26 :名無しさん@13周年:2013/07/25(木) 23:34:51.71 ID:uZi9fGO70
  
▼ジョン万次郎やれよ。こいつの人生は凄いぞ 
土佐の漁民として少年時代を過ごす。ある日、漁に出たときに船が台風に巻き込まれ仲間と4人と漂流してしまう。 
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小さな船は運良く太平洋の孤島へ流れ着くが無人島。そこで雨水を飲み、鳥の卵を食べ、数ヶ月を生き延びた。 
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幸運なことに、アメリカの捕鯨船無人島へ水の補給に立ち寄ってきた。その時にアメリカ船員に救助される。 
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鎖国中なので捕鯨船は日本へは行かず、ハワイへ向かう。万次郎は船上で捕鯨の仕事を手伝いながら英語を習得していく。 
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働き者の万次郎は船長や船員に気に入られる。ハワイで万次郎以外の3人は船を降りたが、万次郎はそのまま捕鯨船に残る。 
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万次郎を乗せた捕鯨船アメリカ本土へ帰港。万次郎はアメリカ本土で船長の養子息子として学校へ通い出す。 
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万次郎、勉強しまくって成績優秀になる。しかも大学にも通う。船舶技師や捕鯨技師として一級の人材になる。 
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万次郎、アメリカで捕鯨船員をしながらアメリカ人として暮らす平和な数年間。アメリカでリア充生活を送る。 
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アメリカ人の彼女も作って結婚も考えたが、彼女が遠洋漁業に出ている間に病死してしまった。泣き叫ぶ万次郎。 
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ホームシックになった万次郎は日本帰国を決意。しかし資金がない。そこでゴールドラッシュにかけて金山へ。 27 :名無しさん@13周年:2013/07/25(木) 23:34:57.95 ID:DbWBWNtvP
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奇跡的に万次郎の一団が大金鉱を掘り当てる。万次郎、超金持ちになる。運命のチート発動。 
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万次郎は大金をはたいて遠洋漁業船を購入。日本へ向け太平洋横断の大航海に出航する。 
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途中ハワイに寄って別れた日本人3人を拾いにいく。しかし一人は病死、一人は現地で結婚していていた。 
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万次郎はぼっちの日本人1人だけを連れて行く事にする。 
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いきなり土佐に行くと外国船は打ち払われるので、まずは琉球へと向かい、そこから日本へ戻ることにした。 
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船は無事に琉球に着くが、1年近く取り調べられ、やっとこさ土佐への帰郷を認められる。 
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この時、土佐漁民としての身分を剥奪される。出航禁止命令。以後は農民として陸で暮らす条件つきで帰郷する。 
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しかし時代は幕末、江戸にペリーが来航し黒船騒動。英語が出来ない幕府は交渉が出来ずに困り果てる。 
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アメリカ帰りの万次郎のうわさが幕府に流れる。農民で英語万能な万次郎は通訳として江戸城へ呼ばれる。 
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江戸城には武士しか上がれないので、万次郎は異例の身分昇格。なんと旗本にジョブチェンジ。万次郎は武士になった! 
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武士になった万次郎は通訳として大奮闘。アメリカの知識を求めて来る幕府の重鎮や維新志士は多く、どんどん仲良くなる。 
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やがて明治維新が始まる。日本大混乱。鳥羽伏見の戦いで幕軍敗走。江戸城無血開城明治新政府誕生。日本開国へ。 
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ここでも万次郎の英語が大活躍。アメリカの現状、交渉術、船舶知識なども豊富な万次郎はそのまま新政府の役人になる。 
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その後も明治維新の一端を担う存在として日本に尽くす。晩年は土佐へ戻り、母や家族と静かに暮らしたとさ。

copipe.cureblack.com

高橋是清

ヘンリー・ダーガー

Henry Joseph Darger, Jr.

アウトサイダーアートの代表として名が挙げられるヘンリー・ダーガーだが、老人養護施設に移動し、部屋を去る際、大家でもあり芸術家でもあるネイサンが遺品整理を行うまでダーガーの作品は死ぬまで誰の目にも触れられなかった。両親が亡くなり身寄りがなくなったダーガーは精神薄弱児の施設に預けられ、15歳の時に院を抜け出して100キロ離れた地元シカゴへ戻った。そこから没年まで病院の清掃員として働き、生涯を終える。

小柄で身なりの良くない彼は、54年間、病院という最も地味な仕事に従事していた。休みの日には、カトリックのミサに5回も出席し、ゴミ箱をあさったりもした。しかし、ほとんどの時間は、狭い雑然としたアパートで過ごし、古びたタイプライターをいじりながら、戸惑うような声で独り言を言っているのを聞くことができた。

出典:“Posthumous fame grows for artist Henry Darger”

代表作になるのが、世界一長い長編小説と言われる『非現実の王国で』である。19歳頃から81歳で亡くなるまでの65年間誰にも知られずに執筆活動を行ってきたという。また挿絵も300枚残されている。これらの挿絵はネイサンによって美術愛好家やMoMAなどに寄贈され、ダーガーの部屋は場所を移してそのまま博物館として保管されている。

さらに『非現実の王国で』は続編が書かれていたり、その他自伝が記されていたり、文通をしていた唯一の友人とは虐待被害児童のための団体を二人で共同で設立することについて話していたり、多くのことが明るみになっていった。晩年、ダーガーの元に自身の創作物が世間で評価を受けているのを耳にした際には「もう遅い」と呟いたそうだ。

出典:https://www.artpedia.asia/henry-darger/

ダーガーは、イリノイ州デスプレーンズにある聖人墓地に埋葬された。墓石には「芸術家」「子どもの保護者」と記載されている。

www.artpedia.asia

レイモンド・ロビンソン

Raymond Robinson

―――都市伝説の男

1950年代から1960年代にかけて、アメリカのペンシルバニア州西部で「緑の男」や「顔のないチャーリー」という都市伝説が広まったようだが、その都市伝説として語られていた人物はレイモンド・ロビンソンという実在する人物だったと言う。

 1919年、ロビンソンが子供の頃、電柱に登っているときに電線によって負傷した。目、鼻、右腕を失ったが、それでもロビンソンは生きることを諦めなかった。

彼はペンシルベニア州コッペルで家族と一緒に過ごしながら、余分なお金を稼ぐ方法として玄関マット、財布、ベルトを織っていました。時々、彼は義鼻と大きな眼鏡をかけていましたが、素顔でも同じくらい快適で、彼の愛する人たちは長い間彼の外見に慣れていました。彼の甥はこう言いました。

彼は自分の怪我や問題について全く話しませんでした。それは単なる現実であり、それに対して彼には何もできることがなかったので、彼はそれについて決して話しませんでした。彼は何も文句を言いませんでした。

楽しみのために、ロビンソンは日中ラジオを聴き、ステッキを使って州道 351 沿いを一度に何時間も歩きました。

historydaily.org

ロビンソンが人目を避けて夜に散歩に出かけるため、気になった周囲の住人がレイモンドを見ようと画策したようだ。その際に、真夜中に通り過ぎる車の光がレイモンドの服に反射した際に緑色に映ったことから「緑の男」と言われるようになったそうだ。

出典:https://historydaily.org/green-man-raymond-robinson/6

 周囲の人に知れ渡ってしまってから、地域の若い住民達が、ロビンソンと天気や地元の出来事について話したり、分かち合うためにタバコやビールをよく持ち込んでいたようだ。

―――ロビンソンは 1985 年に亡くなりましたが、彼の伝説は生き続けています

医師らによると、ロビンソンはまだ少年だった頃に死ぬべきだったという。しかし、顔が溶け、四肢が欠けていたにもかかわらず、彼はどんな期待もはるかに超えて生き残り、私たちの誰もが期待できるのと同じくらい良い人生を送りました。彼は年齢を重ねるにつれて散歩をやめ、ブライトン・タウンシップの老人ホーム「フレンドシップ・リッジ」に入居し、そこで家族の世話を受けていたが、地元住民は依然として彼が歩きながら誰かが止まるのを待っているのを目撃したと報告している。チャーリー・ノー・フェイスの目撃情報は、ロビンソンの人生を永遠に変えた事故の66周年の1週間前である1985年6月11日にロビンソンが亡くなった後も続いた。

出典:https://historydaily.org/green-man-raymond-robinson/6
ビリー・オーウェン

Billy Owen

―――ピンチをチャンスに懸けたアクター

オーウェンは元々バイクの整備士として、妻と生後6か月の息子と普通に生活していたが、副鼻腔に癌が出来るという珍しい病にかかり、呼吸もままならない状態となった。腫瘍の除去の際、右目を含む顔の半分、神経、顔と鼻腔の筋肉を失い、嗅覚も衰え、一生、取り外し可能な歯のプレートを装着しなければならなくなった。

この現状を受け入れる決意をしたオーウェンは、その後、多くの映画、テレビ番組、ミュージックビデオ、お化け屋敷などでゾンビとして出演しました。

allthatsinteresting.com

www.ntv.co.jp

経験

―――インスピレーションを受けてMPを溜める

 長谷川白紙が水沢なおと対談した記事で、美術品を見ることで直接的な影響を受けるのではなくMPが溜まっていくというようなことを述べていたが、確かにい刺激を求めていろんな場所へ出かけるといろんな構想が浮かんだり、意欲が沸く。

 下記のTweetも的を得ているように感じる。勉強に限らず、アイデアにおいても張り付いて考えて根詰めすぎても良くない場合が多い。細野晴臣が作曲において述べていた記憶があるが、音楽は寝かしておいてたまに引き出しを開けてみると粒ぞろいに感じるというように、それにあえて触れない時間にふと出てくるアイデアがキーになることは少なくない。

―――刺激の根を張る

―――経験は思考の源

著者も両方経験しているが、最初は不慣れで緊張感でレジから離れることすらできなかったが最終的にはいろんな業務を経験してレジは片手間の作業レベルで人に教えられるようになった。一人暮らしも最初は寂しかったりで家を空けて実家に帰ったりすることも多々あったが、今ではむしろ一人暮らしの自由さが高く、家事や家に来る訪問など、いろんな側面に目が向くようになった。

下記は起業家の神山理子と言う方のエピソードのようだが、この人自体経歴が面白い。マグロ漁船に乗ろうと考える女子大生なんてそうそういないだろうが、なぜマグロ漁船に乗ろうと思ったのかの経緯も気になる。

とあるご縁があり、マグロ漁船員として1カ月労働しました。

なぜやろうと思ったかというと、過去に都市伝説で「借金が返せなくなると、内臓を売るかマグロ漁船に乗るかの二択を選ばされる」という話を聞いたことがあったからです。

「内臓を売る」のは、誰が考えてもきつい体験です。

しかし、「マグロ漁船に乗る」ことは、その並列の選択肢になるくらいきついらしいのです。

「内臓を売らずに、内臓を売るのと同じくらいきつい体験ができる」のは、「きつい」のコスパがあまりに良すぎるのでやるしかないと思いました。

president.jp

☟過酷な経験、エピソード体験記で言うと下記記事も面白い。

m.job-list.net

関連文献

 ☟下記noteでもいろんな人の生き方について書いているのでぜひ読んで欲しい。

note.com

 

以上。