Patchwork Dream

随時、記事の加筆・修正または再掲載します。

好きなことで生きてく、嫌いなことで命を紡ぐ

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―――二度と出られぬ蟻地獄

自衛官は高級取り(平均年収約980万円)でありながらも定年が50代で早期に引退するため、その後の再就職後が厳しいようだ。

 2018年に陸上自衛隊を55歳・3佐で退官した遠山道弘氏(仮名)は、再就職後の給与の少なさが原因で職を辞した一人だ。 

 遠山氏は、一旦は警備会社に再就職したものの、当初聞いていた業務と実際の業務にあまりに乖離があったことから退職。ただ幸運なことに、たまたまその時期にもともと希望していた損保関連の仕事の求人を発見し、無事内定に至った。 

 身分は契約社員だが、職場環境は極めてよく、「ここなら定年まで働きたい」との思いで勤務していた。ところがある日、ふと家計を見直したところ、退職金や若年退職者給付金がどんどん減っていることに気がついた。「このまま減り続けたらどうなるのだろう」。危機感を抱いた遠山氏はファイナンシャルプランナーのもとを訪れ、収支に関するシミュレーションを実施。その結果、数年で貯金が枯渇することが判明した。 

 当時の給料は手取りで20万円。これまで特に贅沢をしてきたつもりはなかったため、「お金がなくなるかもしれない」とはつゆほども考えたことがなかった。しかし専業主婦の妻、大学生となり一人暮らしを始める娘、障害を抱えた息子……。この給料で家族を支えることは難しかった。車の維持費すら頭が痛くなるが、地方の生活に車は欠かせない。 

 ファイナンシャルプランナーから、「収入を上げることが望ましい」と指摘を受けた遠山氏。やむなく恵まれた職場を離れ、完全歩合制のタクシー運転手に転職を果たす。研修期間は苦しい日々だったが、いまは妻も派遣社員としてほぼフルタイムで仕事を始め、「ようやくなんとかなってきた」と話す。 

news.livedoor.com―――仕事と言う地獄があるから休みのありがたみがわかる

―――キャリアの重要性

糸井 
馴染みの寿司屋さんがいてね、
むかし自分が寿司を握ってることを
取り上げてくれた本があって、
その本の中に、当時やってた仕事が
全部、写真とかで記録に残ってるんだって。
それは、いまやってることと
あんまり変わらないらしいんです。
でも、いまそれを見ると、
「真っ赤になるぐらい恥ずかしい」んだって。
要するに、同じことやってるんですけど、
「まったくわかってなかったんです」って。

矢沢 
ああー、なるほどね。

糸井 
ほかの人が、仕事として見たら、
同じに見えるかもしれないけど、
ほんとに恥ずかしいです、って言ってた。

矢沢 
それがキャリアですよ。

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転職

当方、最初に転職した時は仕事を辞めた後に転職した。在職中に転職したという人に話を聞くと、前職がシフト制で面接のある日は有給を取ったり休みの日に合わせることで上手く転職したようだ。エントリーシートなんかも退勤後に自宅で深夜徹夜して作成したという。割と一回目はWeb面談であることが多いようで、リモートでもギリ大丈夫そうではあった。

またフリーランスに憧れず、組織に属して働くことに執着がある人は、自分一人だとやる気になれないかもしれないという不安だったり、組織が何かあったときに守ってくれるという安心感があるようだ。

☟転職については下記のnoteにてまとめているのでこちらも併せて読んで欲しい

note.com

転職に関しては稀に増田にて結構具体的な個人的エピソードのようなものが掛かれている場合があるのでこちらを参考にすると良い。

anond.hatelabo.jp

―――転職における重要項目

―――転職書類の書き方

―――全くの異業種に転職後、1年後には社長に

異色の経歴のように思えるが、下記は異業種に転職後1年で社長となった27歳の女性の話である。
氏は看護学校を卒業後、21歳から5年間看護師として働いた後に電気工事会社に就職し、事務職として1年間勤務。その後、新たに立ち上げた電気工事会社の社長に就任する形で「建設社長のあやか」としてマーケティングを行っているようだ。

──まずは、佐藤さんの今までのお仕事の経歴について教えてください。

高校を卒業後、3年制の看護専門学校に通い、21歳で卒業しました。その後、一般病棟の看護師として約5年間勤務していましたが、次第に看護師以外の仕事にも挑戦してみたいという気持ちが湧いてきたんです。そして26歳の時に、電気工事会社で事務職を始めました。それから1年後、勤めていた会社とは別の、新たに立ち上がった電気工事会社の社長に就任しました。

(省略)

 

──大きなキャリアチェンジを果たされて、率直にいかがでしたか?

人とコミュニケーションをとるのはもともと好きだったので、職人さんや取引先の方々との会話については不安はありませんでした。社長業についても、周りの経営者の方々からアドバイスをいただきながら全力を尽くしてきましたね。

ただ、電気工事士は専門職なので、転職した当初、知識ゼロから始めるのはとても大変でした。覚えることがとにかく多くて……。仕事終わりに会社で勉強して帰る日が続きました。

社長になってからも、女性だからという理由で取引先の方から少し下に見られることも少なからずあって、とても悔しかったですね。「ちゃんとした会社ですし、大丈夫です」と仕事で関わる方に胸を張って言えるように、より知識を身につけるため日々努力を重ねていきました。

この粘り強さは、実は看護師時代に培われたものなんですよ。夜勤で不規則な生活が続いていたころに体力や忍耐力が鍛えられて、未経験の業種や社長業に慣れるまでの苦労も乗り越えてこられたんだと思います。社員さんからは「鋼のメンタル」と言われるほどです(笑)。苦労した経験は何事にも活かされるのだと感じています。

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建設業を宣伝するSNS運用については、氏の弟が経営者かつSNSを活用した採用活動をしていたことから、これも未経験ながら新たに始めたらしいが、フォロワーは5万人を突破している。

ただ、氏は職人として現場に出た経験はないようで、代わりに社員とのコミュニケーションを図って職場の雰囲気づくりに貢献しているようだ。資格や実務経験は仕事において重要だろうが、それ以上にコミュニケーション力が生きてくるということが良くわかる一例である。

―――出戻りパターンもあり

前職の建築業では、独立して一人親方になったエンジニアが出戻りで社員になったり、一時別会社の社長をやっていた支店長が出戻ったりなどという事があった。

18歳でエステティシャンになって気付いたら23歳になってたふと、こんな給料良いわけでもなく社会的地位も低い仕事やだなあと思いその日から勉強始めて1年後ITエンジニアに転職したちょうどコロナが始まったくらいだったからめちゃくちゃタイミングが良かった最初はそれはもうほぼ毎日泣いたし自分が無力すぎるのに周りの人は優しすぎるのが情けなくてさらに泣いたけど慣れたらめちゃくちゃ楽しくなったし契約社員から正社員になれてエステティシャン時代から給料は倍近くなったし在宅勤務楽だしで最高だ…と思ってたしばらくすると、自分がエステティシャンやってたこともなんだか恥ずかしくて経歴を隠すようになってたオンライン会議とかで人の顔見てすぐ、(この人顔のここの筋肉凝ってるなー…)と思う自分も嫌だったそんな感じだったんだけど、コロナがおさまり始めたから出社したとき大好きな先輩が「なんか自分のマスクの下の顔、自分の記憶と違うんだよね…ショック…」と言ったそのとき、自分でも信じられなかったんだけど自分の口が「もし先輩が嫌じゃなかったらなんですけど、フェイシャルマッサージやりませんか?」って言い出した本当にびっくりした結局家に来てもらってやらせてもらったんだけど先輩のお顔をマッサージさせてもらってたら走馬灯(?)のようにエステティシャン時代の思い出が蘇ってきた初来店時に「友達の中で自分が一番ブスなんです」と言っていたお客さまが「◯◯さんに出会えてエステしてもらって、自分の顔が好きになりました」と言ってくれたことブライダルエステを担当させてもらったお客さまの結婚式に呼んでもらって本当に綺麗な姿をこの目で見れたこと母の日にお客さまのお母さまのエステを担当させてもらって、エステ後迎えに来たお客さまがお母さんかわいい!ってキャッキャしてたことしんどいことも色々あったはずなのに、幸せな思い出がぶわーっと頭を駆け巡ってた先輩もめちゃくちゃ喜んでくれてずっと鏡見ちゃうって言ってくれてあー、このためにエステティシャン6年もやってたんだなあって思い出したそんなこんなで結局またエステティシャンやってるけどすごい幸せエンジニアの方が給料も高いし将来性もあるだろうけど、本当にやりたいことを見つけられたから良かっただから何って話なんだけど、なんとなく書きたくなった

anond.hatelabo.jp

―――高齢転職は難しい

下記は商社マンだった男性がコロナ禍に瀕して48歳で転職し、フリーターとして働くまでについて書かれた記事である。

コロナ禍ではあったが一方で人手不足感が強くなっている。中高年世代の転職市場は過去に類を見ない活況。こんなことが言われるようになっていた。

「ここは思い切って勝負しようと思ったんです。それなりの自信もあったのですがね」

これが第1の失敗。ハローワークはもとより人材銀行、転職サービサーなどに登録。積極的にアプローチしたのだが結果は散々なもの。4か月で5社の紹介を受けたが全滅だった。

「2社は書類選考で落ちました。3社はSPI検査、面接に進めたのですが最終的にはお断りでしたよ」

昔の仕事関係の知り合い数人にもあたってみたが、年齢がネックになりやんわり断られた。はっきりと言われたわけではないが45歳以上は採らないという感じだった。

「50歳で自慢できる実績はないしコネもない。現実の厳しさを知りました」

gentosha-go.com

そこで氏は新聞のフランチャイズ企業の合同説明会の告知を見てイベントに参加、家族の反対を押し切ってフランチャイズのオーナーとして自宅マンションを事務所に独立したこともあったようだ。

加盟金は20万円。数種類の商品仕入れに30万円を払い、自宅マンションを事務所代わりにしてスタートしたのが21年8月。「最初の2か月だけはまあまあの売上があった。友人、知人、親類のご祝儀注文があったから」

大量のチラシを作り新聞の折り込みにした効果もあり50件ぐらいの注文が入ってきた。ところが1度きりのお試し購入ばかりでリピーターを獲得できなかった。

「サンプル品を持って飛び込み営業をやってみたけど反応があるのは30軒に1軒。こんなんじゃ利益なんて出ませんよ」

これ以上は無理と悟って廃業したのは12月半ば。たった4か月しか続かなかった。

「借金はしなかったけど儲けが出たのは2か月だけ、微々たる金額でした。後は赤字でした、馬鹿みたいでしょ」

☟下記記事にもフランチャイズ経営の難しさについて記述しているので、こちらも併せて読んでみていただきたい。

note.com

そこからまた就活を始めるも結果は実らず、単発バイトや奥さんの収入で何とか生活が出来ているようだ。下記の締めの文章は肝に銘じておきたい。

熟慮せず退職したり、フランチャイズビジネスに手を出したりしなかったらこんな苦労しなくて済んだはず。自分にごめんなさいと詫びたくなる。たとえ年収が100万円下がったとしても今より格段に豊かなのだし、家庭に隙間風が吹くこともなかったのだから。

「会社を辞めてもいいのは誰が見ても素晴らしい実績を持っている人。難関の国家資格を取って資格で食べていける人。さもなければ、会社からこれだけの手当てをするので辞めてくださいと言われた人。これぐらいですよ」

ライスワークorライフワーク

以降の記事は、個人的に日課になってしまっているキュレーションサイトでの記事漁りから見つけて印象に残った記事などを拝借して書き連ねている。

ライスワーク…生活を支えるための収益を得ることを目的とした仕事
ライフワーク…人生を通じてやり遂げたいと思う仕事や活動
上記の違いがあり、これらのバランスを良好に保つことでワークライフバランスを実現することが出来るようだ。ただ、下記記事ではライスワーク=ライフワークになっている状態のものを多く取り上げている印象。

起業

下記に紹介する脱サラ(ほとんどはそもそも無職だった人や非正規の人も多い)して起業した人達のエピソードでは、開業のヒントは本屋で出会った本に載っていたというケースが数件見受けられた。その他、助言を受けたりネットの情報からというケースもあるが、ちょっとしたきっかけで開業への道を辿ることになった人が多かった。

☟起業については下記記事でもまとめている。

angrybreakfast.hatenablog.com

■バリューブックス創業者・中村大樹

下記はバリューブックス創業者の中村氏の話である。氏は苦しいバイト経験から就職する選択肢はなく、クリエイターとして活動する周囲の人々に憧れて模索しながら、大学在学中に様々なビジネスに手を出そうとしていたようだ。

実は在学中、憧れるクリエイターたちを真似て、いくつかの事業を試みていた中村さん。

最初はTシャツの手売り。白Tシャツにペンキローラーで色付けし、フリーマーケットで手売りしたが、食べていけるほどの収入にはならず、遊びで終わる。次にトライしたのは若者向けフリーペーパー。同世代のクリエイター志望たちと共に高円寺周辺を取材したが、結局発刊に至らなかった。フリーペーパーの延長線上に立ち上げたのがデザイン会社だ。先輩起業家と共同経営で事務所を借りたが、結局「これをやりきろう」とは思えずやめてしまった。

「何ができて何ができないかすらわからないから、世にあるできそうなことをやってみたんです。デザイン会社をやってみたけど、自分にはデザインの経験もないし、能力もないし、実はやりたくもなかったんですよ」

president.jp

卒業後の氏が学生から無職になり、何もできない精神状態の中、日課であった読書及びジュンク堂へ通っていくことで「せどり」という小遣い稼ぎを見出した。
そこから古物商許可証を取得してBOOKOFFを物色して仕入、それを当時日本に入ってきたばかりのAmazonで販売し、やがては大卒初任給と同等の月額30万の売上、そして仕入れた在庫に昔からの仲間が集まり、貸倉庫で在庫管理しながら運営していったようだ。

引きこもり生活を続けていた9月のある日のこと。いつものジュンク堂で本を読んでいると、「カッコ悪いことで、みんながやりたがらないことをやろう」という一文が目に留まる。藁をも掴む思いで読んでいたのは、転売で小遣い稼ぎをするノウハウ本。

「転売は憧れるような仕事ではないし、なんならバカにされる仕事だと思ったけど、誰もやりたがらない仕事は素人でも難易度が低い。一度そこを切り替えないといけないと思ったんです」

さっそく自宅にあった大学時代の教科書をAmazonで出品すると、翌日すぐに買い手がついた。この時、それまで感じたことのない喜びに襲われたという。

 

(省略) 

 

中村さんは会社設立と同時に、ブックオフからの仕入れをやめる。本を売りたい人から直接買い取ったほうが早いと考えたのだ。買い取りサイトの運営を開始し、それまでせどりに割いてきた時間や労力を、今度はマーケティングに注いだ。ここでも「しつこさ」を発揮し、会社設立初年度の売り上げは8000万円に成長。

売り上げを伸ばす一方で、中村さんにとってバリューブックスは「社会に適応できなかった自分の居場所」であることに変わりなかった。求人を出すようになってからも、集まってくる人たちは何かしらの事情を抱えた人がほとんど。心の病気を抱えている人、若くして子を持ったシングルマザー、どこも雇ってくれないというギャルのような見た目の人。

「社会に参加しにくい人が、それでも食べていかなきゃいけないっていう時に、経験や知識なんかが障壁になって、社会の真ん中は歩けないんです。アウトサイダー的なゾーンを攻めるしかないんですよ。当時の倉庫はあまりオシャレでもないし、時給が高いわけでもない。それでもここで働きたいって思う人には、みんな働いてもらいたいと思ったんです」

この記事で一番興味深かったのが、創業当時は友達の集まりで行っていた仕事が、徐々に人が増えて組織化すると共にマネジメント体制や評価制度が整っていくことで、居心地の悪さから退社する人が増えたという一面である。元は社会から逃げてきた人の集まる場であったのが、企業として成長することでその一面が失われてしまう皮肉な結末である。

■『いも子のやきいも』店主・阿佐美やいも子

氏は移動販売に関する書籍からアイデアを得て焼き芋屋の運営を志したようで、SNSで開業を告知し、リヤカーやその他機材を集めて実際に始めたそうだが、初めはうまくいかず挫折したようだ。

──そんないも子さんが、なぜ焼き芋屋を始めようと思ったんですか?

古本屋で、移動販売に関する本に出会ったことがきっかけです。当時はカフェを開きたいな、と思っていたのですが現実的に難しいと半ば諦めていました。でも、移動販売ならリヤカーは当時30万から買えたし、農作物を加熱するだけなので保健所の許可は不要で、届けを出せばいいだけ。また、2021年6月からは食品衛生責任者の資格が必要となりましたが、当時は何の資格も必要ありませんでした。「これなら自分にもできるかも!」と思ったんです。

当時は28歳にもかかわらず一度も正社員としてはたらいた経験がないことに、強いコンプレックスを抱いていました。周囲を見渡せば、毎日必死になってはたらいている人や結婚して子育てに励んでいる人が多くいる中、「私はこれからもずっと一人で何もつかめずに生きていくのか」と絶望していた時期だったんです。

 

(省略)

 

正直、「辞めたい」と何度も思っていました。始めたばかりのころ、「応援しているね」とたくさんお芋を買ってくださった方がいて。ある日その方の家の側まで来たので、思い切って訪ねてみたんです。そうしたら、「あの焼き芋は本当にまずかった。もうここへは売りに来ないで」って。本当にショックでした。「まずい」「ちゃんと焼けてない」「おいしくない焼き芋屋さん」と言われて途方に暮れる毎日でしたね。

実は当時、焼き芋をあまり食べたことがなかったので、正解の味が分からなかったんです。串が通ればいいと思っていたぐらい。おまけに、焼き芋を作るために買った壺もあまり良いつくりではなかったらしく、焼き芋がうまく焼けていなかったみたいで……。

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現在は同じように焼き芋屋を開業したい人に向けて講座を開いているようだ。下記のサイトにて講座やイベント情報が掲載されている。

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―――キッチンカーも楽じゃない

芸人の人は芸能界を退いたらYouTuberかキッチンカー始める人が多い印象だが、キッチンカーは楽ではない。

月額10万円でキッチンカーをリースしている「ケータバンク」(杉並区)の松本聡人社長によると、現在、納車待ちに3カ月以上かかるという。二人とも、この「キッチンカーを借りる」という形態での開業を目指した。

2024年3月上旬。ケータバンクで車を借りた康法さんだが、納車までは6カ月を要した。それまでの間はポスティングのアルバイトをしながら食いつないでいたという。

キッチンカー開業は納車後にやることが山積みだ。

すぐに出店できるわけではなく、まずは最寄りの保健所へキッチンカーの営業許可申請を提出。その後、看板やタペストリーなどキッチンカーを装飾するものを準備して、キッチンカー全体の写真撮影をする。これに売り出すメニューの写真と合わせたものが、名刺代わりのプロフィールとなる。

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ケータリングは固定費を抑えられそうな印象だが、初期費用が結構掛かるようで、キッチンカーに貼るデザインから調理道具や電源供給のバッテリーなど、内部の道具の費用も掛かる。さらに出店する場合は場所代が掛かり、その場所もあまりよい場所が残されていないケースが多いようだ。

「僕、辞めようと思って、キッチンカー」

彼なりの言い分はこうだ。

「『時間とお金を両立させたい』って思って始めたのに、1日5万円を売ろうと思ったら、5月のイベントみたいなことを出店のたびにしなきゃアカンわけじゃないですか。それで週5日やとしても、結構きついなって思って。それで、やっと僕が六本木で黒服やっとった時の給料と一緒ぐらいやと思ったら、『いや、ちょっとなあ』ってなるじゃないですか」

思うように稼げる場所やイベントなどそうそうないという現実を、わずか4カ月の間に嫌というほど経験していた。

こうして康法さんの挑戦は終わった。

廃業から半年が経過した2025年1月、私たちは久しぶりに康法さんの自宅を訪ねてみた。

廃業後はガソリンスタンドでのアルバイトを経て、3カ月前から水道メンテナンスの会社に就職していた。外食を控えた自炊の節約生活も続けており、キッチンカー事業で負った150万円近い借金もほぼ返し終わったという。

「『嫌だったから辞める』とかそういうんじゃなくて、シンプルに可能性はなかったと思うんですよ。そこで頑張っても、僕がその後に思い描いていたようなことはできなかったと思いますし。今はお金を貯める実力を蓄えたい」

そう語る康法さんの机には、電気工事施工管理技士の国家資格を取るための参考書があった。

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■著述家・中道あん

26歳から専業主婦、37歳でパート勤務、45歳で正社員となった氏だが、元々何か資格やスキルがあったわけではなく、いずれも事務職として働いていたようだ。

決意した中道さんは迷わずハローワークへ。そこで紹介された会社にそのまま就職する。給料は月額16万。ボーナス込みでも年収は200万円台前半だった。そんなある日、夫への不信感を抱く事実が発覚する。すでに夫との関係は冷めていたが、これで本格的に自立の決心がつく。より良い条件の職場を求めて、友人に「あなたの会社に空きがあったら紹介して」と頼み続け、1年後、ようやく転職が叶う。

「私は資格もないし履歴書はほぼ白紙なんです。だから正社員になるときは、パートでどんなことをしてきたか、職務経歴書をしっかり作成して持っていきました。そこが買われたようです」

翌年、夫とは別居。シングルマザーとしての日々が始まった。同じ立場の人がどんな生活をしているのか気になった中道さんは、ネットで検索してみた。 「そうしたら、上がっているのは、貧困と病気と将来に対する不安ばかり。いやいや、足元の幸せに気づいたらもっと楽しく生きられるでしょうと食卓で家族に話すと、長男が『それなら自分が発信者になってブログをやったら?』と勧めてくれたんです。あっという間に開設してタイトルもつけてくれて。そこから毎日書き始めました」

発信内容は、50代で自立し、充実した日々を送る自身の経験。「読まれる記事」にするにはどうしたらよいのかと研究する努力も惜しまなかった。 「徹底的に他者目線に立って、検索エンジンに引っかかるにはどうしたらよいのか、この記事が誰にヒットし、誰の役に立つのかを研究。『日記』ではなく『情報化』する努力をしました」

 

(省略)

 

努力が実って2年後にはトップブロガーに。収入的にも安定したのだが、そこでまたチャレンジ精神がムクムクと湧き上がってきた。「自分の能力は別のことにも発揮できるのではないか」、考えた中道さんは、2019年、会社を退職し、一念発起して起業する。

「これまでのノウハウを活かして、女性がライフシフトをするための講座を主宰することにしたんです。ブログを活用した起業や集客、自己実現のためのアプローチなど、ブログを使って人生を動かしていくレッスンですね」

起業に際しては、自分がブログで頭角を表すことができた、その成功体験をお客様に伝えるための共通言語がないなと感じていたので、たまたま知り合った女性起業家のマーケティング講座に半年間通い、セミナー運営の勉強もして臨んだ。顧客は順調に増え、コロナ禍にいち早くオンライン講座に切り替えたことで、海外からの参加者も増えた。現在は、1回2時間のマンツーマンのレッスンを月に20人以上こなしている。著書も3冊刊行し、中道さんは「なりたかった自分」を実現した。

ascii.jp

この記事からは、偏にブロガーとして日記的に書き綴るだけでなく、アフィリエイト収入を見据えたSEO対策など独自に研究することで単なる日記ではなくお役立ち情報として機能するようにしたようだ。

☟氏のブログについては下記のアメブロより、スタート時の記事から確認することが出来る。

ameblo.jp

■デルタクリエイト 代表・佐藤舞

大学時代に統計学・データ分析を学び、野村総研マーケティング分析コンテストで賞を取ったという氏だが、会社員時代はそれらと関係のない職に就に就いて退職→ニート期間を経て、データ分析を強みとして起業。

——パチンコ店から物流業界へ転職した後、適応障害となったことがきっかけで、以前からの夢だった起業をするために退職を決意されたとうかがいました。この時、どんなことで起業するかなどの計画は立てられていたんですか?

佐藤舞氏(以下、佐藤):何かで起業しようとは思っていましたが、「何で」とはまったく決めていなくて、とりあえず会社を辞めた後に決めようと思ったんですよ。

というのは、適応障害心療内科に通っていた時だったので、その精神状態と脳みそで論理的に自分の起業のプランを立てられるとは思えなくて。なのでいったん辞めて、ちょっと時間とか精神的な余裕が出てきた時に、何で起業するかは考えようと思って、とりあえず逃げた感じですね。

データ分析で起業するまでにも、けっこう紆余曲折ありました。1年間ニートをしながら「何で起業しようかな」って考えた時に、もともと私、文章を書くのが得意で好きだったことを思い出したんです。

会社員を辞める直前に、昼休みに会社のパソコンでネットサーフィンしていたら、Yahoo! JAPANで、主に海外のビジネス書を翻訳して出版している会社の「ダイレクト出版」の広告が流れてきたんです。「紙とペンだけで、世界中どこでも働けるようになる」といううたい文句を見て「これは」と思ってクリックしました。

それはコピーライティングのビジネス書の広告だったんですね。私はその時、コピーライターという職種があることさえ知らなくて、「もしかしたら私のための仕事なのかもしれない」と思ったんです(笑)。

そこで最初はコピーライターになろうと思って、コピーライティングのビジネス書を読んだり、ライティングの養成講座で勉強しました。

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佐藤:私は当時、コピーライターってそんなにみんな知らないだろうと思っていたんですけど、ビジネス系のコミュニティに入ったら、コピーライター志望の人がたくさんいて、しかもみんなぜんぜん稼げていないと(笑)。

私もまったく実績はないし、いちからコピーライティングの勉強を始めている段階で、仕事が取れるとは思えなくて、結果としてはすぐ辞めることになりました。

というのも、その(コピーライティングの勉強をした)後、実家の近くにある商工会議所に「コピーライターを始めたんですけど、どういうふうにお客さんを取っていけばいいですかね」という創業相談をしに行きました。

そこで、商工会議所に登録している、起業の支援をする外部の先生とお話しする機会があって。私が今までどういうことをやってきたのかとか、大学で何を学んできたのかというお話をしたら「佐藤さん、たぶんコピーライターじゃなくてデータ分析のほうがいいよ」と言われたんです。

そこでガラッとデータ分析の仕事に変えて営業するようになったら、意外とそっちのほうがうまくいって、すぐ仕事が取れました。

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■鮨かわの・河野透

広告代理店を定年退職後、わずか4年半の修行を経て寿司職人として独立。自宅の一室を予約制の寿司屋とし、出張寿司などで80歳になる現在も生計を立てている方の記事である。寿司職人になるにはかなりの経験・年数が必要に思えるが、想定よりも早い独立である。

河野さんの修業のスタートは、「飯炊き3年」ではなく、日本初の寿司職人養成学校として開校した東京すしアカデミーから。ここで基礎的なコースと集中特訓的なコースを受講し、卒業後はインターネットで見つけたテイクアウト専門の寿司屋で2年、その次に自宅と同じ沿線にある老舗寿司割烹で2年、見習いとして働いた。

「結果的に寿司屋を始めたので修行といえばそうなるけれど、そもそも東京すしアカデミーに通ったのは、おいしい寿司を自分で握ってみたいという20年来の夢をかなえるため。習い事感覚でした。開業しようなんて、これっぽっちも考えていませんでした」と、河野さんは当時を振り返る。

(省略)

2011年、出張寿司からスタート。その年の暮れに「鮨かわの」の営業許可証を取得し、貸し切りの営業も始めた。

出張寿司の初期費用は微々たるものだった。重ねて運べるネタケース、組み立て式の作業台とテーブルは自作したので、かかった費用は材料費だけ。それ以外は飯台、保冷クーラー、テーブルの下に敷くシート、生ゴミ用のバケツ2個、自分用のスリッパ、包丁などの調理道具一式。ネタとシャリを車に積んで、お客さんの家に向かう。

貸し切り寿司
自作の組み立て式の作業台(撮影/大澤誠)
集客は主に友人知人の口コミ頼み。滑り出しは苦戦したが、学生時代の友人たちが次々と依頼してくれて、少しずつ口コミの輪が広がっていった。

やがてお客さんたちから「狭くてもいいから大将の厨房で作りたての寿司を食べたい」というリクエストを受けて、自宅の建て替えのタイミングで広さ6畳あまりの1室を用意した。

流し台は衝立で隠し、8人掛けの大きなテーブルの一辺にネタケースを設置。飯台はテーブルの高さに合わせた作業台の上に置く。ネタケースや飯台用の作業台は出張寿司のものを兼用した。

貸し切りのコースには三千代さんお手製の前菜、茶わん蒸し、味噌汁、デザートがつく。

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退職後の有り余る時間と貯金を使って新たに学び、寿司修行によって好きなことで働きながらスキルと知識を経て、調理師免許も取得。これこそ理想的な老後の人生、好きなことで生きていく感じがする。

キャリアブレイク・セカンドキャリア

―――戻れる場所があるから安心して転身できる

下記noteの主は公務員として高校教師と働いていたキャリアを捨て、100円でたこ焼きを販売するという未経験の道と臨時教員と言う二刀流で生活しているようだ。

記事内でも『挑戦が失敗する可能性』より、『失敗したときに戻れる場所があるかどうか』のほうが重要!と述べられている。やはり、後ろ盾があるから挑戦できる安心考えられるのだろう。教員免許を持っている知人も、休職してその後ワーホリへ出向いたりしたが、これもいつでも教員に戻れる安心からと言っていた。そう考えると教職って大変だろうが食いっぱぐれないのかもしれない。

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―――年収1000万円から10分の1の収入へ
下記記事の方は錚々たる経歴で、

IT系企業でデジタルマーケティングや広報のコンサルタントとして約10年勤務

文部科学省の広報戦略アドバイザーと東京都港区の広報専門職を兼業

東京都庁の公募に2000人の応募者の中から戦略広報担当課長に就任

という順風満帆過ぎるキャリアを積み重ねてきていたが、人気より早々に退職し、キャリアブレイクへ。

ただ、あくまでキャリアブレイクであってFIREではない点に留意しておきたい。その期間を2年までとして、その間に自分の方向性を決めていくようだ。

加藤さんはキャリアブレイクを「これまで向き合えてこなかった大事なことに取り組む期間」だと位置づけ、空いた時間をそのためにあてている。向き合えてこなかった大事なこととは、主に3つ。「家庭の財務管理」「健康管理」、そして「家族との時間」だ。 

「財務管理」は、銀行口座の整理やクレジットカードの見直し、将来の資金計画など。どれも、忙しさのあまり先延ばしにしてきたことだ。これを機に、収支の状況を夫婦で見直す機会も定期的に作ることにした。 

「健康管理」は、定期健康診断の受診、食生活の改善、睡眠時間の見直し、運動習慣の確立など。これまで加藤さんは「自分は健康だ」と信じていたが、健康診断を受けると要検査の項目が見つかり、あらためて健康管理の大切さを認識したという。加藤さん自身だけでなく、妻や子ども、親も含め、健康診断の受診や病気の予防に取り組んでいる。 

そして、「家族との時間」。例えば、小学校1年生の長男の夏休み中は、将棋にハマった長男に付き添って、東京・千駄ヶ谷にある将棋会館に連日一緒に通った。往復2時間以上、電車に揺られながら子どもと話す。それは、忙しく働いていた頃にはとれなかった家族との時間だった。 

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とは言え、実績があることから、PR企業の顧問の仕事や研修・講演といったスポットの仕事があるようで、こういった仕事からも次のキャリアに繋げるヒントを得ているようだ。

ブルーオーシャンを見つけるために、仕事や家族との時間のあいまに、今後のキャリアの「種まき」となる活動も行ってきた。例えば、興味がある分野の業務に単発で取り組んでみたり、イベントに足を運んだりしているらしい。 

その結果、加藤さんは「地方の行政広報」という分野に可能性を見出しつつある。 

「都庁を退職した後、全国各地の自治体の広報研修に関わる機会をいただいたことを通して、『地方では、広報の担い手が圧倒的に足りてない』と感じました。であれば、僕が役に立てることもあるんじゃないかな、と」 
まだ明確に意思決定をしたわけではないが、地方の行政広報に関わりながら働く選択肢にどのようなものがあるか、加藤さんは考え始めている。 

加えて、キャリアブレイクによって家計における支出・将来設計を見直したことで収入面についての不安も解消されたようだ。

YouTubeチャンネル「TAKASU TILE」

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元々消防士として働いていたが、自身の病気や家族が亡くなったことを通し、今やりたかった趣味の動画制作を、自然豊かな環境での生活を基に発信していく「TAKASU TILE」を立ち上げる。

それまで1年は消防士と並行してVLOG動画を作成していたが、退職後は田舎暮らしを発信している。その過程で、以前当ブログでも紹介した「OKUDAIRA BASE」の奥平氏が携わったと思われる動画が投稿されている。

由貴奈さん(以下、由貴奈) 以前彼が、「いつかYouTube一本でやっていきたい」と話しているのを聞いていたので、驚きはしなかったですね。決断したのは突然だったかもしれないけど、何年も自分と向き合って考えた結果だと分かるから、「良いじゃん!」と思いました。

YouTubeで田舎暮らしを発信している(写真=高須さんのXより引用)写真を見る
YouTubeで田舎暮らしを発信している(写真=高須さんのXより引用)
――パートナーも応援してくれているとはいえ、一般的に安定していると言われる公務員を辞めてYouTuberになることに、不安はなかったのでしょうか。

高須 うーん、そのときは全くなかったですね。むしろ、「いつかYouTubeをがんばろう」と夢を見続けるだけで行動に移さない方が不安でした。

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―――事故で夢が破れる

YouTubeには様々なスタイルがあるが、旅行系YouTuberが事故によって引退してしまうという例がある。下記は有名企業で営業職に就いていた氏が50歳前半で早期退職してYouTuberに転身後のエピソードを綴った記事である。機材を揃えて過去の旅行動画を編集してアップロードしたところ、動画がバズって1000人を超える登録者が増えたが、最終的には事故によってYouTuberとしての夢を断念したようだ。

 気が付くと登録者数は1000人を超え、徳井さんはさらなる挑戦に出ることにしました。

 なんと、車中泊で日本一周の旅動画を計画したのです。今回は、妻や息子に相談せずに中古のワンボックス車を購入し、寝泊まりできるように改造したとのことです。しかし、旅の開始早々に大きな不運に見舞われました。

「自分の愚かさに呆れるばかりです。東京を夜に出発し、日本海側の道の駅を巡る計画だったのですが、一睡もせずに目的地に向かったため、海岸沿いの道で居眠り運転をしてしまい、大きな自損事故を起こしてしまったのです。

 私は肩と右足を骨折し入院することになり、ワンボックス車は大破。機材も道路に散乱して使用不能になりました。一瞬でYouTuberとしての活動が終わってしまったのです」

 悲惨な目に遭った徳井さんですが、幸いにも気持ちの切り替えが早く、以前の会社に戻り倉庫勤務のアルバイト生活を送っているとのことです。

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■シンガーソングライター・瑛人

2019年『香水』がヒットし、紅白歌合戦まで出場したシンガーソングライター・瑛人氏。
音楽学校で制作した楽曲で、学校の講師であったルンヒャン氏と共同制作。また友人であったダンサーのAKARI氏がMVに出ることでYoutube含めて楽曲を配信していき、そこからTikTokまたYouTubeのMVでもバズり始めたようだ。

──それで「やりたいこと」として、シンガーソングライターという目標を見つけたのですね。

うーん、どうだろう。よく仲間とラウンドワンとかカラオケに行っていたんですけど、そこで自分だけ学生証がないから割引きがなくて。

そのことをバイト先の横にあるスケートショップではたらいている友だちに話したら「週2回くらい通えば学生証を貰える場所があるよ」と言われて。それが音楽学校だったんです。週2だからはたらけるし、学費もそこまで高くない。学生証ももらえる。「いいじゃん」って。

──では、入学当初はプロのシンガーソングライターになろうとは思っていなかった?

全然。だから音楽に向き合う熱量も周囲とは違いました。音楽経験者ばかりだったし、売れたいとか、高い目標を持っている人が多かったですね。同級生はボイストレーニング、ギター、作曲とかたくさんのコースを受講していたけれど、ぼくはシンガーソングライターのコースだけ。

絵空事で「ジャスティン・ビーバーリツイートしてくれたら」なんて思うことはあっても、「売れたい」「売れる」とかそこまで考えていなかったし、考えられるレベルでもなかったです。とにかく自分の歌を作ってみたいと思っていただけで。だから2年制のコースだったけれど、1年で学校を辞めてしまっています。

(省略)

 

──でも、その音楽学校時代に『香水』が生まれたのですよね。

そうですね。当時、ぼくはちょうど彼女と別れて『香水』の歌詞みたいな時期だったんです。バイト先のハンバーガー屋のオーナーと毎週末遊んでいたのですが、そのオーナーがドルチェ&ガッバーナの香水を使っていて、それを「ちょっと持っていて」と言われて、預かったままだったんですよね。

香水を預かった日の翌日、友だちと遊びでセッションをして、そのときもそのまま香水を持っていたんです。ギターの音に合わせて適当に歌っていたときに、「別に君を求めてないけど〜」「君のドルチェ&ガッバーナの〜」というフレーズが降りてきました。

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ヒットした後「自分の居場所はここではない」と感じてしまったようだ。現在は元の生活に戻っていったようだ。

──現在の活動について教えてください。

地元の横浜の先輩たちや昔からの音楽仲間たちと一緒に全国津々浦々でライブさせてもらっています。ライブをすることで感じることもあるから、それを活かして、またライブして。そうしているうちにちゃんと一人前の弾き語りができるようになりたいですね。

生きていく中でいろいろ感じて、歌にしていく。僕は器用にすぐできるタイプではないので、ゆっくり、ちゃんと地に足をつけてやっていければいいのかなと思っています。

──ライブの規模感は気にしないですか?

『香水』がヒットしていた当時は周囲に感化されてライブ会場の大きさとかを気にしたこともあったけれど、今は実力にあったところでやっていきたいなと思ってます。

今年から元々バイトしていたハンバーガー屋のオーナーと一緒に逗子海岸で海の家を始めました。

実は逗子海岸は10年間くらい音楽の演奏が禁止されていたんです。でも今年から、音量制限はあるものの、弾き語りならOKになって。今は海の家の片隅で無料の弾き語りライブをしています。

その活動が少しずつ大きくなっていって、逗子海岸でフェスをやれたらなんて。大きな会場でライブをするよりも、今はそういう方が燃えますね。

でも、10年ライブできていなかった場所で実現させるライブ。そのまだ見たことない景色の方に、今は興味があるし、わくわくしています。

今月も逗子で「ハクナ・マタタ」というニューイベントをやるんですけど、それが成長していってくれればいいですね。

社会復帰

―――好きな物を見つけてリスタート

下記は、元々は専門学校でデザインや建築を学んでいたが、卒業後に就職した建築事務所を1年で退職。その後実家に籠ってフリーランスのデザインの仕事を行うが、しっかりとした職に就きたいとの思いから、新たな道を掴んだtukadakk(つかだっく)氏のnoteである。

そんな宙ぶらりんなままで1年間。このまま、こうやって親のすねをかじって、こういうテイストで作って!描いて!と言われるがままの、自分が見えないものをずっと作っていくのかな...と先が見えなくて不安な日々を過ごしました。

そんな時「アルバイトでもなんでもいいし、ものをつくる仕事でなくてもいいから、ただ、好きなものに囲まれて仕事がしたいなぁ。」と思い直し、職探しを始めました。
当時は母や祖父の影響もあって、竹ざるやかごなどの荒物や古道具、曲げわっぱや塗り物などの工芸品など「生活の中にある手仕事の道具たち」に惹かれていました。

好きなものに囲まれたい!
そんな時に、暮らしの道具とうつわを取り扱う雑貨店が、アルバイトを募集しているところに巡り会い、運よく働けることになりました。
オンラインショップから始まり、実店舗が開店して1年ほどのお店だったこともあって、接客だけでなく、多岐にわたる仕事に挑戦させてもらえました。その中で、お店のSNS写真を撮ったり、オンラインショップの商品ページの撮影に立ち会ったことをきっかけに、「料理やスタイリングをもっと上達したい!いつかこんなお仕事をしたい!」と思うようになり、練習として自分でも日々のごはんを写真に撮り、Instagramで投稿することを始めました。

note.com

そこから勉強のために、うつわに関するイベントに足を運んだりしていたが、それをきっかけに徐々にうつわへの興味が深まり、現在では就職先のお店でフードコーディネート担当し、それに伴い料理に関する講座も行っているようだ。

―――10年引きこもりからのフルタイムでの社会復帰

下記記事では、新卒入社の会社でストレスからカウンセリングを受けることなくそのまま退職し、以降10年間引きこもり生活を送っていたという方の話だが、現在は塾講師として働いているという。

変化が訪れたのは、引きこもり状態になってから10年目。高校のころに仲のよかった同級生が結婚をしたということを風の噂で知りました。このとき、自分は10年間引きこもっていたこと、自分だけが取り残されていることが急に現実のものとして押し寄せてきたといいます。そして「自分は生きている価値はないのではないか」「このまま生きているのもツラい」と絶望感に打ちひしがれることになりました。一方で、「どうせ死ぬなら、もう1回、外に出てみようか」と、ポジティブとネガティブが入り乱れる、何ともいえない感情が湧いてきたといいます。

――そのとき母が「外に行くなら一緒に行こうか」といってくれたんです。その言葉を聞いて、母も、そして父も、ずっと私を見守ってくれていたことを実感し、涙が止まらなくなりました

家族の支えを身に染みて実感したのをきっかけに翔太さんはカウンセリングを受けるようになり、半年後には少しずつ仕事をするように。そして今はフルタイムで塾講師をしているといいます。

また引きこもり状態になった当初、父は53歳、母は52歳でしたが、当然、父も母も10歳年を重ね、気づけばもうすぐ年金世代。「これからはたくさん親孝行をしないといけませんね」と翔太さん。

gentosha-go.com

記事としてはシンプルな内容だが、動き出すためのきっかけがいつどうやって発動するかわからないし、それによって人生を左右されることを考えると、人は常に悩んで動き続けなければ現状を変えることはできないのだろう。

 

以上。